日本代表に立ちはだかる「W杯16強の壁」 02年&10年大会で喫した“惜敗”の教訓とは?
互角の勝算が存在した02年W杯トルコ戦と、10年W杯パラグアイ戦
過去二度、日本はワールドカップ(W杯)ラウンド16に進出し、その相手には十分に恵まれた。
2002年日韓大会で対戦したトルコがワールドカップに出場するのは、実に48年ぶりのことだった。トルコもノックアウトステージに進むのは初めてで、連続出場の日本には地の利があり、千載一遇のチャンスだった。
確かにトルコは、ガラタサライが1999-2000シーズンにUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)を制し、翌シーズンにはUEFAスーパーカップでレアル・マドリードを倒すなど充実期を迎え、2000年の欧州選手権でもグループリーグ突破に成功していた。代表、クラブレベルともに、個々はハイレベルの経験値を積み上げていたので、それこそが日本の一度のミスを突き、狡猾に逃げ切る原動力となった。
2002年大会の日本に課せられたノルマは、グループリーグ突破だった。それまで開催国が、グループリーグで敗れ去ったケースはなく、しかも日本のグループは激戦区だった。掛け値なしの大国がいない代わりに、ベルギーとロシアは全体を俯瞰してもダークホースとして優れたタレントを揃えていた。フィリップ・トルシエ監督率いる日本は、欧州2カ国との連戦を1勝1分で切り抜け、長居スタジアムでの第3戦ではチュニジアに2-0で快勝。2勝1分で望外のトップ通過を果たす。
そして未曾有の熱狂の中で、グループリーグ3戦を全力で戦い抜き、指揮官は考えた。
「さらに勝ち抜くにはフレッシュなパワーが必要だ」
こうして決勝トーナメント1回戦、雨の宮城スタジアムのピッチには初めてペアを組む西澤明訓、三都主アレサンドロの2トップを送り出す。悪いアイデアではなかった。実際に三都主は、FKでクロスバー直撃のシュートを放ち、果敢な突破で相手の警告も引き出した。
ところが後半に入ると、三都主を鈴木隆行に、また大会で2得点しラッキーボーイだった稲本潤一も市川大祐に代えてしまう。日本は前半早々にセットプレーから失点していたため、前線のターゲットを増やし、両翼からクロスを増やす発想だったが、結局は高さのあるトルコDFに跳ね返され1点に泣く。トルシエ監督は、若い才能を次々に引き出したが、持ち駒の特性を柔軟に活かす戦術的な幅は持ち合わせていなかった。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。