【歴代W杯初戦の教訓】“割り切り”が生んだ史上初の白星発進 カメルーン撃破で得た追い風と確信
2010年南アフリカ大会・グループリーグ第1戦「日本 1-0 カメルーン」
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【1998年フランス大会】 【2002年日韓大会】
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【2006年ドイツ大会】
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2006年ドイツ・ワールドカップ(W杯)での惨敗を受けて代表監督に就任したイビチャ・オシムは、日本サッカー界の切り札的な存在として期待を集めた。ところが「日本化」を謳った同監督は翌年に病に倒れ、夢は岡田武史監督に引き継がれる。
新監督は、前線からのプレッシングの徹底と組織的な連動による崩しで、それを表現しようと挑戦した。しかしW杯への出場権は獲得しても、その後の国際親善試合では後半のペースダウンとカウンターからの失点が目立つようになる。南アフリカ大会が近づくにつれ、まず選手たちが「これでは勝てない」と危機感を抱き、スイス・ザースフェーでの合宿中にミーティングが行われた。攻撃陣と守備陣の意見が割れ、喧嘩腰の言い合いにまで発展したという。だが最終的には「勝つためにまず守備を」で一致し、岡田監督に代表者が戦術変更を直訴した。
この点では選手側と岡田監督の話が微妙に食い違うが、少なくとも5月30日、イングランドとのテストマッチ(1-2)では4バックの前にアンカーの阿部勇樹を配した4-3-3が試され、指揮官は「これは4-1-2-3で、本大会でも対戦相手のトップ下が1枚なら十分にあり得る」と説明した。イングランド代表のファビオ・カペッロ監督には「4-3-3というか、1トップ、9バック」と揶揄された戦い方だったが、この試合を境に日本代表は割り切って守備的な戦術へと舵を切るのだ。
同じグループの本命は、2戦目に当たるオランダだったので、新戦術の成否も含めて、必然的に初戦が重要な鍵を握ることになった。ただし苦悩の末に腹を決めた日本陣営に、プラス材料も伝わっていた。初戦の相手カメルーンのチーム内に内紛が勃発。一部の選手たちがやる気を失い、メンバーから外れるという。実際にフタを開けると、MFで軸になるアレクサンドル・ソングの代わりには、弱冠18歳のジョエル・マティプが起用されていた。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。