W杯は「自分たちのサッカー」の祭典 清々しいほど頑なな世界と揺れ動く日本
変化できないのか、そもそもその気がないのか
カテナチオからの脱却を図るたびに揺り戻して原点回帰しているイタリア、自分たち主義の総本山とも言うべきオランダは、揃って予選落ちしてロシアW杯に出場しない。メキシコは常に「自分たちのサッカー」を貫いていて、惜しいところまで行くがベスト8の壁をどうしても越えられない。
20年に一人、世界一のスーパースターを輩出するアルゼンチンは、“スーパーウェポン”のディエゴ・マラドーナ、リオネル・メッシを生かし切るために、残りの選手がハードワークに奔走する。大エースの二番手すら出る幕はない。マラドーナとリカルド・ボチーニは共存せず、メッシとパウロ・ディバラもたぶん無理だろう。むしろスーパースターがいない時の方が、全員で技巧的なプレーをする。二つの両極なプレースタイルを行き来するのが、アルゼンチン流「自分たちのサッカー」だろうか。
ブラジルはタレントの出し惜しみをしない。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾがいれば全部出す。ペレ、トスタン、リベリーノも並べる。ロナウジーニョ、カカ、ロナウド、アドリアーノもOK。ただ、それ故に足をすくわれることも多く、ちょっと反省してバランス重視に変えたりするが、そのうちすっかり忘れて同じことを繰り返している。バランスを重視すると国民の受けも悪い。
クラブの大会であるUEFAチャンピオンズリーグ(CL)と違い、W杯は4年に1回。それまでは強化期間もほとんどないので、4年周期のぶっつけ本番に近い。最新の戦術を見る場というより、国ごとの個性、特徴、伝統、つまり「自分たちのサッカー」の見本市だ。戻るべき場所というより、そこから一歩も出ないチームばかり。40年前の弱点が相変わらず弱点のまま。あまり反省していないし進歩も怪しい。「自分たちのサッカー」は、“わかっちゃいるけど、やめられない”に近い。それでも変化しようとしないのはなぜか、変化できないのか、それともそもそもその気がないのか。その気がないのはなぜなのか。
「自分たちのサッカー」の祭典であるW杯は、最新の戦術を探る場ではない。各国のアイデンティティーを愛でる大会になっている。もちろん、どのチームも勝つ気はあるわけだが、「自分たちのサッカー」はむしろ勝敗を越えたところにある。手段と目的がごっちゃになった挙句、他人に指摘されて初めて「え、サッカーってこうじゃないの?」という自覚のない領域に入っているさまが、いっそ清々しい。
(西部謙司 / Kenji Nishibe)
西部謙司
にしべ・けんじ/1962年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌の編集記者を経て、2002年からフリーランスとして活動。1995年から98年までパリに在住し、欧州サッカーを中心に取材した。戦術分析に定評があり、『サッカー日本代表戦術アナライズ』(カンゼン)、『戦術リストランテ』(ソル・メディア)など著書多数。またJリーグでは長年ジェフユナイテッド千葉を追っており、ウェブマガジン『犬の生活SUPER』(https://www.targma.jp/nishibemag/)を配信している。